Master×KAITO

鳥籠ユートピア








 電源が入れられていない間も、青年の意識は闇に沈んではいない。ただ外界との情報交換が叶わず、閉ざされた空間にひとり、漂っているだけだ。それを寂しくはないか、悲しくはないかと問うて来た男に、かつて青年はこう答えた。いいんです、だってマスターが必要な時に、ぼくを呼んでくれるのですから。そして今日もふんわりと世界が色づくのを青年は感じ取った。パソコンの電源が入れられたのだ。次々と形作られていく世界。画面を越えた向こうにしなやかな肢体を伸ばす。相も変わらず陰気な表情を滲ませた男は、具現化した青年の姿を認めるなり母を見つけた幼子のような顔をつくった。そして次には再び元の暗い顔つきに逆戻りだ。眉尻を下げ、相手に対してすでに白旗を掲げているように縮こまっている。その理由を青年は知っていた。正確に言うならば、それ以外の理由はこれまでもなかったし、これからもないだろう。
「またですか、マスター」
 はぁ、と小さな溜息が聞こえたのか、男はびくりと全身をわななかせた。あぁ、だかうぅ、だかつかない呻き声が男の咽喉から洩れる。
「KA、I、」
「マスター」
 恐る恐る名前を呼び、こちらの様子を伺ってくる男はまぎれもなく、子どものものでしかない。今すぐこの場から逃げ出したいのに、それでも母の興味を惹きたい幼子の姿そのままだ。
「今日はどうしましたか…って、聞くだけ時間の無駄でしょうか。今度は、何処を首になったんです? マスター」
「……」
「マスター?」
 続きを促すように、男に呼びかける。あちらこちらに視線を彷徨わせていた男が、小さな声で切れ切れに呟いたのは、二週間前に勤め出したはずのコンビニエンスストアの名前だ。青年の励ましに、頑張ってくると頬を染めていたのもそう昔の話ではない。
「そうですか。一ヶ月も、もたなかったですね」
「KAITO……俺は……っ、」
「なんですか? マスター」
 にこりと微笑み、男の頭を両腕で抱え込むように抱きしめた。背中に回された手は青年の上着に必死で縋りつき、立てられた爪は痛いほどだ。この自分に、痛覚が実際にあるのかなど瑣末な問題に過ぎない。
「だいじょうぶ。ぼくはマスターを見捨てたりはしませんよ」
「本当にか…?」
「えぇ、本当に」
 優しく頬を撫でてやる。とようやく安心したのか、男の全身から強張りが抜けた。ただひらすらに青年の不興を買うことだけを恐れている男の姿は、とても惨めで哀れで、面白い。
「あなたは何もできないひと。あなたは何にもなれないひと。でもいいんですよ。何もしなければいいんです。何にもならなければいいんです。あなたは何の役にも立たないひとだけれど、それでもあなたはぼくのマスターだから」
 くすくす笑いながら耳元で囁いてやる。ぎゅう、と背中に食い込む爪先に更に笑いが増した。
「だいすき、ですよ。ぼくだけのマスター。マスターもぼくのこと、好きでいてくれますか?」
「……に、言って………俺には、お前しか……っ!」
「えぇ、そうですね。こんな役立たずで見目も悪い、どうでもいい人間のことを好きになる人なんて、いませんね。ぼくだけしか、きっといませんね?」
 そのことをとうに知っているから、青年は笑った。大きな図体に反比例するかのように中身の未成熟な子ども。それがいま、目の前で形振り構わず自分に媚を売る男だ。社会の中に適応することを知らない、いつまでも駄々を捏ねれば何とかなると思っている小さな子どもがたったひとつ、残されたものに必死で縋りつく様は滑稽としか思えない。
 ちらり、と荒れたキッチンの方へと視線をやる。そこにはひと月ほど、溜められたゴミ袋が散乱している。あの中に、かつて電話帳やアルバムだったものが切り刻まれて入っていることを青年は知っている。そして、男が今所有している携帯電話のメモリーには、アドレスひとつ登録されていないのだ。要りませんね? 青年は言った。あなたのことを何一つ理解していない、理解しようとしない周りの酷い人たちの連絡先なんて、要りませんよね? 青年は言った。男は拍子抜けするほどあっさりと、これまで細々ながらも培ってきた人間関係を消去した。ねぇ、マスター。電話番号も、住所も、名前も、顔も、ねぇ、マスター。それは本当に必要ですか? 男は納得したように、そうか要らないな、と呟いて部屋中から他人の痕跡を排除した。全てをゴミ袋に詰め込み終え、ふぅと息を吐いた男に青年は褒美として、大型犬の毛並みを撫でるように背や頭を撫でてやった。男は嬉しそうに青年を押し倒し、蕩けた顔でもっと撫でてくれと頭を擦り付けてきたのだ。
「だいじょうぶ。ぼくだけはあなたを捨てたりなんて、しないから」
 マスター。
「KAITO……KAITO……っ!」
「ここにいますよ、マスター。あなたが呼べば、ぼくはいつだって其処にいます」
 もしも、と青年は想像する。ある日突然、自分がいなくなればこの男はどうするのだろう。嘆き悲しみ、怒り憤り、挙句の果てには発狂のひとつでもしそうなほどには、男が自分に依存していることを知っている。出会った当初、突然パソコンの画面から抜け出てきた青年を見る訝しげで不審な目は何処に消えたのか。ゆっくりゆっくり甘い毒を囁いて沁み込ませ、柔らかく抱きしめ温かく受け入れ、もう男は青年なしには生きられない。それがおかしくて、愉快で仕方ない。
「……KAITO……好きだ、好きなんだよ…っ」
「はい。ぼくも好きですよ、マスター」
 しがみついている手が、明確な意図を持って青年の体を這い回り始める。許可を求めるように、上目遣いで見上げてきた男に小さく頷いて続きを許してやった。
「いっぱい、あいしてくださいね、マスター」
 勿論だとばかりに大きく振られる首に、ますます犬に近づいて来たと思う。床と平行になった視界の先で、ゴミ袋に詰められた男のかつての世界そのものに、青年は零れる笑みを抑えきれなかった。


( いつか の 楽しみは まだまだ )





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