Master×KAITO

箱庭ヘヴン








 荒々しくドアを叩きつけ、男は自分のアパートへと戻った。帰ってくる途中の電車内でも、そしてアパートの階段を上がってくる間にも、ずっと脳内で繰り返していたのは今日、突然解雇を言い渡してきたバイト先の店長への罵詈雑言だ。自分だってロクに働かずにいるくせに、何か起これば全て下っ端になすりつける。自分にそれほど非があるとは思わないが、それでも職を失ったことだけは事実だ。いまだ定職に就かずにアルバイトを2つ3つ掛け持ちする生活を送っている。何処も長続きしないのは断じて、自分に問題があるのではない。全ては自分を理解しようとしない、いけすかない連中が悪いのだ。どすどすと埃を立てるように奥へと進み、そしてひとつ息を吐いてからパソコンの電源を入れた。ブゥン、とかすかな起動音が響く。この起動音からして全て彼仕様にしようかとも考えたこともあるが、どうせなら彼自身の声が聞きたいと思いそれは止めた。
「KAITO、」
 早く。早く早く早く。そろそろ購入して数年が立つパソコンの立ち上がりは遅く、いらいらと膝を揺らしながら男は待った。早く。
「KAI、」
 男の焦りが伝わったのだろうか。画面が淡く発光し、そしておぼろげに人の輪郭が形作られていく。光の粒子は実体を伴い、華奢な肢体を作り上げた。
「KAITO…!」
 やがて部屋にいつも通りの薄暗さが戻ると、男は待ちきれないとばかりに、現れた青年の身体をかき抱いた。普通の人間のものではないその身体でも、何度も何度も抱いているそれはすっかり男の手に馴染む。
「マスター」
 柔らかな声で呼ばれるだけで、男の身体を歓喜と安堵が走りぬけた。
「KAITO…KAITO…」
 幼子のように縋りつく男をみっともないと嗤うでもなく、離してくれと困るでもなく、青年はその両の腕で男を抱きしめ返した。
「だいじょうぶ」
 ゆっくりと、男の耳に直接流し込むように囁かれる。
「だいじょうぶ、ですよ。マスター。ぼくがいます」
 とても甘い砂糖菓子のような声音は、男の鼓膜にじんと染み渡る。うん、うんと必死で頷く様は、青年から齎されるものを何ひとつ逃がしたくはないと主張しているようだった。
「今日は、どうしましたか。マスター」
 額に幾度も軽い口づけを送られ青年の胸元に顔を埋めながら、男は今日の出来事を青年へと洗いざらい話した。それは時間を置き、怒りが恨みに摩り替っているのもあり、事実とは少しばかり異なっていたかもしれなかったが、それは男は気づきもしないであろうし、また青年にとっては知ったことではなかった。男の吐き出す荒々しい恨みつらみを、青年は全て許容した。一言口にする度に、青年を締め付ける腕の力は強まるばかりであったが、双方とも意に介さない。咽喉が枯れるまでに、自分と青年以外へのおよそ全ての存在への恨みを言い募らせた男は、少しばかり怯えるように青年を見上げた。全て吐き出し終えた今になって、ようやく青年が自分へ幻滅しないか、失望しないか、それらに気を回せるようになったらしい。一瞬の男の怯えと恐れとを、青年はまるで聖母のようにたおやかに微笑むことで打ち消した。
「だいじょうぶ、ですよ。マスター」
 優しく男の髪をあやすように梳いてやる。甘やかな許しは男の思考をどろりと溶かした。だいじょうぶ、青年がそう囁いてくれるだけで、男は全てに受容された気になれた。
「だいじょうぶ、あなたにはぼくがいます。だいじょうぶですよ。マスター。心配なんて、なにひとつしなくていいんです」
 すでに恍惚とも呼べる表情で、男は抱え込んでいた肢体を、擦り切れた畳の上へと押し倒した。突然の視界の反転にも青年は動じず、それどころかますます笑みを深め、男の顔を輪郭をなぞるように蠢かす。
「マスター。疲れましたね。がんばりましたね。少し、休みましょうか。ぼくと一緒に」
 引き千切る勢いで服の前を開け、男は貪るように青年の身体に喰らいついた。先ほどまで存在していなかったとは思えない体温と質感がそこにある。本来ただのソフトウェアに過ぎない青年がどうして此処にこうして存在しているのか。どうやって彼自身の意思で話し、そして自分をマスターと慕うのか。最初の頃は疑問に思っていたはずのそれらは、しかしもう男の脳裏にはない。ただその白い身体を縫いとめるように縋りつき、男は呻き続けるだけなのだ。
「KAITO…」
「はい」
「KAITO…俺には、お前しか…!」
 そしてただのブログラムに過ぎないはずの青年は、薄っすらと微笑みながら男を包み込む。
「えぇ。ぼくにもあなただけ。だからあなたにも、ぼくだけ」
 そこに浮かんだ微笑の意味に、男はいまだに気づかない。





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